芸術の技術としてのリハビリテーション
リハビリテーションの基礎としての芸術
可塑性 を学ぶワークショップ
なかつくにリュケイオン ワークショップ
一
芸術教育、芸術訓練の核にあるのは、ただ何かを学ぶこと、習得することではありません。いままで学び、習得してきたものをいったん放棄して、新たに別のやり方を身につけなおす、その柔軟性を身につけることにあります。学ぶとは何かを増やすことだと思われがちですが、むしろ大事なのはすでに学んだものを手放し、今までと違うやり方で事物、生命、環境と関わっていける柔軟性なのです。芸術家に必要な技術はこういうものです。いわば放棄し、新たに始める、そのリセット能力=学ぶ能力を学ぶのが芸術教育の核心にあるものでした。
ここで働く感覚の役割を考えなおしてみましょう。事物、環境との付き合い方が安定しルーティン化すると、その過程で余分な感覚情報は切り捨てられます、必要以外のものは切り捨てられる。気が散らなくなる。感性の働きは絞られ、限定的になります。ところがあらたに何かをはじめるとき、反対にあらゆることに感覚を研ぎ澄まし、あらゆる可能性を踏査し、何か変化がみつかったとき、その偶然がなぜ起こったのか、それと関連する事物、環境、情報の網目を把握することが必要になります。いいかえれば感覚がその能力をもっとも発揮するのは、未知なものへ開かれているときなのです。
芸術は、このように身に馴染んだ世界との繋がり、方法をほどき、新しく繋ぎ直すことを学びます。こうした芸術教育での実践と同じ過程が、自ら選んだのではない仕方で、ある日いやおうなしに始まることがあります。
二
脳卒中によって突然はじまるのが身体半身の麻痺です。脳卒中で損傷するのは、手足そのものではありません。損傷を実際に受けたのは脳です。しかし機能を失ったものとして症状が現れるのは手足です。脳が受けた損傷も二層に分けられます。まず血管の梗塞あるいは血管の破裂—出血によって神経細胞の壊死、器質的な損傷が起こります。次にその損傷の結果として、脳と身体の繋がり—有機的連関が切断されます。いままで脳と身体の繋がりを統御していた脳の認識が、実際の脳と身体の繋がりと一致しなくなります。それが脳と身体の対応が不全となる機能的損傷すなわち右あるいは左側の半身の手足が動かない、という症状として現れます。
第一の器質的な損傷はほぼ恢復しないと見做されています。リハビリテーションが追求するのは第二の機能的不全からの恢復です。機能不全として起こっているのは、脳が動かそうとする手と、実際には動かない手、認識のなかにある手と実際の手がずれているという現象です。まず、そのずれがあることをはっきり把握し確かめていくこと。つぎに機能を失った身体に外部からフィジカルにも働きかけ、また残った神経回路に知覚を通して働きかけ、こうした外部からのさまざまな刺激—介入を通して、脳を活性化させ、脳と身体、身体と環境、環境と脳の間の有機的連関を再獲得していきます。しかし失ったものを取り戻すのではありません。失われた機能は、脳が損傷した器質的な部位に局所化されていたのではなく、いままでの脳の認識と身体の繋がりから起こっています。無効になっているのはいままでの脳の認識でした。古い認識では身体の実際はもう捉えられず、身体は動かないということです。したがってリハビリとは古い認識に拘泥し、その認識を復活させるというよりも、新たにもう一度、身体そして世界との繋がり方を作り直すことです。リハビリテーションの核心にあるのはこの考えであり、その学習—訓練、稽古です。これが可能なのは、脳が神経と神経、神経と身体の繋がり方そのものを組み替えられるからです。この能力は脳の可塑性と呼ばれています。
同じことは、運動の麻痺だけでなく、失語、半側空間無視、失認、失行といった高次脳機能障害にも当てはまります。ここでも損なわれたのは発声器官や眼や耳そのものではなく、脳のほうです。声も聴覚も保たれ、眼はそのまま映し、網膜は正しく像を結んでいるのに、言葉や、空間の半分や、見たものの意味や、習慣化されていた動作が、失われたものとして現れます。脳が受けた器質的な損傷と、それによって脳の認識と身体・世界の繋がりがずれてしまう機能不全が起こるのは、運動麻痺の場合とまったく同じです。もっとも、この場合、ずれが起きてる気づくこと自体が、たやすくありません。運動麻痺では外から知覚されうる対象としての身体があり、そして古い身体の像が残っているから、そのずれは比較として捉えやすい。けれども半側空間無視では、ずれの一方の項、つまり実際に対象として捉えられるべき(たとえば左側の)空間の方が世界から抜け落ちています。片側の視野は見落とされているのではなく、左右という区別そのものが失われています。皿の左半分を残したことも、本人には欠けとして現れません。気づけないのです。ずれを捉える枠そのものが揺らいでいるという点では、運動麻痺も高次脳機能障害も地続きです。けれど高次脳機能障害では、不全となった認識の枠を、その認識をもつ脳自身によって修正することが困難なのです。その修正を統御する脳が、間違えているのですから。つまりリハビリに求められているのは、もはや無効になった古い認識を変更する方法だということです。ここで恢復とは、失った言葉、空間、意味、動作を取り戻すことではありません。恢復されるべきは失われた世界との有機的=機能的な繋がりです。その機能は、脳が損傷した器質的な部位に局在化されていたのではなく、いままでの脳の認識と身体・世界の繋がりから起こっていました。無効になっているのはいままでの脳の認識でした。そしてこの認識は、もともと唯一の正しい世界だったのではなく、脳が身体と世界に繋がるための一つのまとめ方にすぎませんでした。古い認識では身体や世界の実際はもう捉えられず、言葉は出ず、空間は半分になり、意味は失われ、動作は崩れるということです。したがってここでもリハビリとは、古い認識に拘泥し、その認識を復活させるというよりも、新たにもう一度、言葉と、空間と、意味と、動作と、世界との繋がり方を作り直すことです。
三
そもそも、何かできなかったことができるようになるとき、いままで知らなかった何かを本当に発見するとき、起こっているのはこのことでした。私と私の身体、その身体と世界とを結ぶ回路を新しく作り直す。それは、あたりまえと受け取ってきた世界を、そしてそれを当然としてきた自分を、別のものにするということです。知らなかったことを知る、考え方を変えるとは、その考え方の上に生きてきた自分から、あえて離れることに他なりません。新しいことを学ぶとは、それまでの自分の繋がり方を、一度ほどいて、結び直すことです。リハビリも、学びも、ここでは同じことが起きていた、といえるでしょう。
普通、学ぶといえば、知識を増やすことだと思われています。けれどもここで起きているのは、知識を受け取る器そのものを作り替えることです。器の中身ではなく、器の形じたいを変える。新しいものを受け取れる自分にする。つまり学び方を変える。その変え方、柔軟性を学ぶ。これを学ぶことを学ぶ、と呼んでみましょう。そしてこれこそが昔からリベラルアーツ(人文学、教養学)と呼ばれてきたものの核にあったものです。個々の知識を蓄えることではなく、学ぶ能力そのものを鍛え、整え、まだ来ていない学びを受け入れられる柔軟な下地を用意すること。何を学ぶかではなく、新しいものを学ぶことのできる自分をたえず作り直しておくこと。それがリベラルアーツの本来のあり方でした。
その意味で、学ぶ、ということは身体技法でした。脳の認識回路を、その脳自身だけで変えることはできません。世界そして事物、他者と関わり、そこから入力された情報をいかに受け止め、どう応答するか、その回路を作り上げていくことが学びだとすれば、入力される感覚、身体動作をあえて自分から遠ざけて、見慣れないもの、感覚したことのない感覚、やったことのない動きに身をまかすことは、認識と身体、世界を結びつける感覚回路の再編の、大きな契機になります。その核心に芸術とリハビリテーションという方法は、もっとも深く触れているということができるのです。
まねび、ということばがあります。猫が人の行動を熱心に観察するように、誰かの手の動きをじっと見る、と、それを見ている私の中で、何かがすでに動きはじめる。そして自分の手を自分のものとしてでなく、その人のように動かしてみる。どう感じるか。あるいはカマキリになってみて、カマキリのように感じてみる。あるいはセザンヌのスケッチの模写をしてみる。何回も模写していくと、どのように、どういうところに筆を置いていったかが、わかってくる。感覚がそれについてくる。まねびとは、外側から似せることではなく、見ることと動くことが交差する、その場所で、自分を組み替えていくことです。大きな意味でこれは会話です。会話によって認識そして意識は変化していく。身体、環境との関係もそれと同じです。
古代ギリシャから、哲学は身体技法でした。考えるという行為は、ものを作る、運動をするという行為と、行為である限りで同じでした。哲学は考え方そのものを変えていく、認識を変化させ成長させていく技術でした。技術を超えていく方法=技術は、いままでの技術が使えなくなっても、それを再生できる能力を育てます。そして芸術は、技芸=技術を組み替えていく技術そのものを指しています。リハビリテーションは芸術の技術だったということです。