jp / en

なかつくにリュケイオン

いま、ここにある魅力ある何か、が生まれ育ってようやく達成されたものとするならば、それが生まれて育った場所を《ふるさと》という言葉で呼ぶことができるかもしれません。

 《もの》の魅力、価値が、もともとそれに備わっていて、自ずから現れるものであるなら、《ふるさと》という言葉は必要ありません。

《ふるさと》という言葉が大事に受け止められるのは、何かの魅力、価値は、それを大切だと受け止め、その魅力が消えてしまわないように育て、守り、受け継いでいかないかぎり、生み出されることもなく存在もしないと考えられるからです。

 それが文化です。文化とは自然そのものではなく、自然を含んだ大きな環境のなかで、そこに属する《もの》の価値を認め、育て、支え合う、自然を含んだ固有の環境を形成することです。

 その固有の(つまりオリジナリティをもった)環境が文化と呼ばれ、もし《ふるさと》という言葉を使うならば、その文化の中でこそ可能になった事物、生き物にとって、そこは《ふるさと》なのだといえるでしょう。

人間にのみ《ふるさと》があるのではなく、そこで作られた事物、そこに生きている自然、その全てが それぞれ互いを必要とし、そのため互いを支えあい、それぞれを作りだし、育て継承していく。こうして再生産を続けていける環境が、ほんとうの意味での《ふるさと》だと呼べるのではないか、とわたしたちは提案したいのです。

 事物の価値を測るとき、いつでも経済的な価値が優先されてきました。たとえば「なぜ芸術作品は評価されるのか」という問いはよくなされます。それは往々にして「なぜこの作品はこの値段なのか」という問いに短絡され、「それが人気があるから」という答えに結びつけられ理解されています。

すなわち《もの》の価値は人気があることによって上がり、一方、人がその《もの》を欲しくなるのは、その《もの》が価値を持っているから、つまり人気があるからだと考えられてしまうのです。であるならば「人は人気がある《もの》を欲し、ゆえにその《もの》の価値は上がり、ますます人気が上がる」と論理は循環してしまいます。つまり、人気がある《もの》が人気を高める、価値を高めるというのであれば、ある日、それはもう人気がないとみなされれば人気もなくなり、その価値もまたたくまに転落し失われてしまうということになるでしょう。価値が人気(需要)によってだけ決まるという市場原理を中心に考えれば、そうなってしまいます。

しかし文化が作り出される場所に戻って考えれば、そうでないことがわかります。《もの》を作り出すのには時間がかかります。人気があるから、《もの》が作られるのではありません。他の人がどうであれ、それは具体的に必要であり、それなしには成り立たず、生きていけない暮らしがあるから、そこに生まれ作り出され、育ったのです。芸術作品も、それなしには存在し、生きることの意味を失なってしまう活動、生活があるから必要とされるのです。つまり、その活動、生活にとって、かけがえのない《もの》であるから必要とされるのです。

その《もの》があることではじめて成り立つ活動があり、生み出される《もの》がある。

そうである限り、その《もの》は価値を失なうことはないでしょう。どんなに人気がなくなっても、それを必要とする人たちや事物にとって、それは決して手放されることなく、その作品はかならず経済的にも維持されます。それは水や空気や食糧のような必需品だからです。それは家族のようにかけがえのない存在だからです。

いいかえれば、この、かけがえのなさ、は多くの人にとってではない。その《もの》ときわめて特別な関わりをもつ人たち、事物たちにとってということです。なぜ必要なのか、その《もの》に学び、その《もの》に育てられたからです。理由は、その《もの》がなければ、その仕事は成立しない。続くことはなかった、という事実にあります。

 なぜ《もの》ができたのか、そこに有るのかを、人気は説明できません。確かに、それが貴重だとわかると人気がでることもあるでしょう。けれど人気という論理はなぜ、その貴重な《もの》が作られることが可能になったのか、を理解することは決してできません。人気はいつも遅れてやってくるだけです。

如拙の絵がなければ雪舟の仕事も生まれなかったし、長谷川等伯の仕事も生まれませんでした、たとえ如拙が人々に知られていなくても、雪舟や等伯は如拙の絵を守ったでしょう。如拙の仕事が与えた刺激が、雪舟や等伯の作品が作られることを求めたからです。如拙の仕事がなければ雪舟や等伯の作品が作られなくければいけなくなった理由も(秘密も)、おおく失われてしまうでしょう。その《もの》が宝であるのは、それなしに成り立たない文化があるからであり、それはコウノトリの家族が代々続いていくことと変わりありません。それがかけがえのない文化が存在することの意味であり、その条件です。

 文化(経済も)を最終的に支えているのは、それが必要であると思う人たち、事物たちの繋がりです。文化とは、このような、ひとつの環境系(ネットワーク)として成り立っているのです。

 文化とはこのように相互にそれをかけがえのない《もの》として認める人間そして生きもの、事物たちの繋がりとして支えあい、成り立っています。それを必要とするのは多数の人たちではなく、その繋がりをつくっている個性をもった個々のメンバー、事物たちです。そのひとつ、ひとつ、ひとりひとりがそれぞれの価値をもち、互いを支えあい、互いを守っている。それがわたしたちの考える《ふるさと》です。

たとえ世界がどのように変わってしまっても、この文化としての《ふるさと》はそこに関わり、そこで生きて、育っていく、その環境系のメンバー(小さな事物、生き物にいたるまで)を互いに支えあい、守り、さらに魅力を高め、強く生きていけるよう、日々、鍛錬し育てていくでしょう。

なかつくに リュケイオンは、1990年代のはじめに広島県の総領町、三良坂町、吉舎町のエリアで生まれた、環境文化圏運動を受け継いでいます。最初は「灰塚アースワーク」と呼ばれていたその運動は、トールキンの『指輪物語」で舞台となる「ミドルアース(middleearth )」が、日本神話の舞台である「なかつくに(中つ国)」と訳されていることにヒントを得て、関わっていた主なメンバーの間で「なかつくに環境文化圏」と呼びかえられるようになりました。そして、2005年には総領町の稲草地域に「なかつくに公園」が整備されるところにまで至りました。

 運動の開始から30年近くの時が経ちましたが、参加したメンバーが盛んに議論していた考えは決して廃れることなく、むしろその必要性、重要性はますます強く自覚されるようになりました。

 文化を作り出すのは、その大切さ、かけがえのなさを理解し、互いを必要とし、支え合う環境なのです。その環境にそこで作り出される事物も、作り出す人も励まされ、教わり、価値は日々高められていかなければならない。この意味で文化に関わる人々にとって、勉強、訓練に終わりはありません。勉強とは日々、新たに学びなおし、生きなおしていくことだからです。リュケイオンという名前は、この環境自体が学校=暮らし、環境をつねに再生産させていく、学びなおす場所としてあるという思いを含んでつけられています。

なかつくにリュケイオンは、こうした文化を維持していく仕組み全体をひとつの文化的環境=環境系として捉えます。

わたしたち人間が(他の生物、自然と共に)、生きていくために必要とする《もの》=わたしたちの活動、生きていくことに意味、価値を与えてくれる《もの》の繋がり。わたしたちが学び、研究し、活動に生かし、空間、時間を超えて繋げていくべきことは、この事物と事物、生きとし生けるもの、生きていないもの、さまざまな物質や活動が作り出す繋がりです。これが人の活動をそして事物のかけがえのなさを支えている。

「生きる」という言葉は充分ではありません。もっと積極的に環境や生活は、いつでもそれを新たに学びなおし、新たに使うことで、つまりそれをいつも新しく生きなおすことで、その保存も保護も持続もできるからです。環境、文化、ふるさとは生活のなかでいつも新たに発見され、新たに使われ、いわば生きられなければならない。つまり、なかつくにリュケイオンが目指すのは(そこに確かに在るべきなのは)、生きられた環境としての芸術のふるさとです。生きられた教育、生きられた工房、生きられた美術館、生きられた図書館、がそこにあります。そこに行けば、いつも夏休みのように輝いた日々(だから「なかつくに」と呼ぶのです)がある。生きているかぎり、そこに戻ることで、わたしたちは再び生きられる。





灰塚アースワークプロジェクトについて
http://kenjirookazaki.com/old/haizuka/jp/
Art Sphere Haizuka
(環境文化圏 はいずか)ヒストリー

http://kenjirookazaki.com/old/haizuka/jp/activities/001art-sphere.html
Yotsuya Art Studium
(ArchiveSite 2003~2014)

http://studium.xsrv.jp/studium/
おととい橋(羽地大橋)について
http://kenjirookazaki.com/old/haizuka/jp/works/ototoi.html

Nakatsukuni lycuem

1.

If something attractive that exists here and now has been born, nurtured, and finally achieved, we might call the place where it was born and raised its "hometown."

If the charm and value of "things" were inherent and naturally manifested, the word "hometown" would be unnecessary.

The word "hometown" is cherished because it's believed that the charm and value of something can only be created and exist if it's recognized as important, nurtured, protected, and passed down so that its appeal doesn't disappear.

This is culture. Culture isn't nature itself, but the formation of a unique environment, including nature, where the value of "things" within it is recognized, nurtured, and mutually supported.

This unique (i.e., original) environment is called culture, and if we use the word "hometown," it could be said that it's the "hometown" for the things and living beings made possible within that culture.

Not only humans have a "hometown," but all things created there, the nature living there, all need each other, support each other, create each other, nurture and inherit each other. We propose that an environment that can continue this reproduction is what can be called a true "hometown."

2.

When measuring the value of things, economic value has always been prioritized. For example, the question "Why are works of art valued?" is often asked. This is frequently oversimplified to "Why does this work cost this much?" and understood in terms of "Because it's popular."

In other words, it's thought that the value of "things" increases because they're popular, and people want these "things" because they have value, meaning they're popular. If so, the logic becomes circular: "People desire popular things, therefore their value increases, and they become even more popular." This means that if something popular is one day deemed unpopular, its popularity and value would rapidly decline and be lost. This is the result of thinking primarily in terms of market principles where value is determined solely by popularity (demand).

However, if we return to where culture is created, we see this isn't the case. It takes time to create "things." They aren't made because they're popular. Regardless of others, they are born, created, and nurtured because they are concretely necessary, and there is a way of life that can't exist or continue without them. Even works of art are needed because there are activities and lives that would lose their meaning of existence without them. In other words, they are needed because they are irreplaceable "things" for those activities and lives.

There are activities that can only exist because of these "things," and there are "things" that are created because of these activities.

As long as this is true, these "things" won't lose their value. No matter how unpopular they become, they will never be abandoned by the people and things that need them, and these works will always be maintained economically. They are necessities like water, air, or food. They are irreplaceable existences like family.

In other words, this irreplaceability isn't for many people. It's for people and things that have a very special relationship with these "things." They're necessary because they've learned from and been nurtured by these "things." The reason is the fact that without these "things," their work couldn't exist or continue.

Popularity can't explain why "things" were created or why they exist. Certainly, when it's understood that something is valuable, it might become popular. But the logic of popularity can never understand why it became possible for these valuable "things" to be created. Popularity always arrives late.

Without Josetsu's paintings, neither Sesshu's nor Hasegawa Tohaku's work would have been born. Even if Josetsu was unknown to many, Sesshu and Tohaku would have protected Josetsu's paintings. This is because the stimulus given by Josetsu's work demanded that Sesshu and Tohaku's works be created. Without Josetsu's work, much of the reason (and secret) why Sesshu and Tohaku's works had to be created would be lost. These "things" are treasures because there's a culture that can't exist without them, no different from a family of storks continuing for generations. This is the meaning and condition of the existence of an irreplaceable culture.

What ultimately supports culture (and economy) is the connection of people and things that believe it's necessary. Culture exists as this kind of environmental system (network).

Culture is thus supported and exists as a connection of humans, living beings, and things that mutually recognize each other as irreplaceable "things." It's not needed by a majority of people, but by the individual members and things with unique characteristics that form this connection. Each one, each individual has its own value, supporting and protecting each other. This is what we consider a "hometown."

No matter how the world changes, this cultural "hometown" will continue to support, protect, enhance the charm, and daily train and nurture its members (down to the smallest things and creatures) who are involved, live, and grow there, so they can live strongly.

3.

Nakatsukuni Lykeion inherits the environmental cultural sphere movement that was born in the early 1990s in the areas of Soryocho, Mirasaka-cho, and Kisa-cho in Hiroshima Prefecture. This movement, initially called "Haizuka Earthwork," was renamed "Nakatsukuni Environmental Cultural Sphere" among the main members involved, inspired by the fact that "Middle-earth," the setting of Tolkien's "The Lord of the Rings," was translated as "Nakatsukuni" in Japanese mythology. In 2005, this led to the development of "Nakatsukuni Park" in the Inakusa area of Soryocho.

Nearly 30 years have passed since the start of the movement, but the ideas that the participating members actively discussed have never faded. Rather, their necessity and importance have become increasingly recognized.

What creates culture is an environment where people understand its importance and irreplaceability, need each other, and support each other. In this environment, both the things created and the people who create them must be encouraged, taught, and have their value enhanced daily. In this sense, there's no end to study and training for those involved in culture. This is because studying means relearning and reliving anew every day. The name Lykeion was chosen to include the idea that this environment itself is a school = life, a place to constantly reproduce and relearn the environment.

Nakatsukuni Lykeion views this entire mechanism of maintaining culture as one cultural environment = ecosystem.

The connection of "things" that we humans (along with other living beings and nature) need to live = "things" that give meaning and value to our activities and lives. What we should learn, research, apply to our activities, and connect across space and time is this connection created by various things, living beings, non-living things, various substances and activities. This supports human activities and the irreplaceability of things.

The word "live" is not enough. More actively, the environment and life can only be preserved, protected, and sustained by always relearning and using them anew, that is, by always living them anew. The environment, culture, and hometown must always be newly discovered, newly used, and so to speak, lived in daily life. In other words, what Nakatsukuni Lykeion aims for (what should certainly be there) is the hometown of art as a lived environment. There are lived education, lived workshops, lived museums, lived libraries. There, there are always shining days like summer vacation (that's why we call it "Nakatsukuni"). As long as we live, by returning there, we can live again.